4月6日、始業式前日。気候は晴天、風力はゼロ。
その日になってもまだ、祐無は北の街で高校生らしい日々を過ごしていた。
それが、今日で終わることになると知りながら。
終焉への道のりを、一歩一歩、地を踏みしめて歩いていた。
雪解けを終えた舗装された道路。雪以外の色を見せる屋根に、その家並み。
テレビを介してではない、もう二度と見ることの叶わない『生の景色』を瞳に焼き付けるようにしながら、駅までの道をひとり、ゆっくりと歩いていた。
彼女の終着点――駅前のベンチ――では、彼女の母・祐子が待っている。
祐一と一緒に。
祐無はそこで祐一と入れ替わり、祐一は祐子とこの北の街で、祐無は父・零治との2人で実家の屋敷で、それぞれ暮らす手筈になっていた。
それでも、彼女の足取りは重くない。
確かに歩調はゆっくりだが、表情が穏やかだった。
まるで子供のような、現在という時を精一杯に楽しんでいることがわかる、そんな笑顔を浮かべていた。
今日は風を感じることができないのが残念だが、散歩したり肉眼で風景を眺めたりすることは、まだまだ新鮮な行為だ。
たとえその先に何が待っていようと、そうできることが嬉しいことに変わりはない。
しかし世の常と言うべきか、良いことは長続きしないものである。
祐無の視界には、もう駅前の風景が収まっていた。
祐無が2人を見つけたのは、2人が祐無に気付くのとほぼ同時だった。
もちろんその2人とは、母の祐子と弟の祐一である。
祐子は秋子ほどではないがまだ若々しいので、祐一と並ぶと母子というより、少し歳の離れた姉弟のように見える。
「久しぶり、姉さん」
「うんっ。久しぶり、祐一、お母さん」
「ええ、久しぶりね」
互いに歩み寄ってから、彼女達は三者三様ながらも同じ挨拶を交わしていた。
出張らしい出張が初めての母と、修学旅行以外では外泊をしたことがない祐一。
この再会を久しぶりだと思うのは、この家族には至極当然のことだった。
「どうだった……って訊くのも馬鹿らしいわね、全部知ってるから」
「ふふっ。じゃあ私が訊くね、外国はどうだった?」
「どうもこうもねぇよ……。あんなの、高校生がしていい仕事じゃないって……」
「あははっ。お疲れさま、祐一」
「おう。姉さんも、大変だったろ?」
「まあね。でも辛くはなかったよ? それに楽しかったし」
「ああ。今の姉さんを見てれば、よくわかるよ」
屋外ではあったが、3人は久しぶりの再会に、家族の団欒を繰り広げていた。
それでも、全員が何かひとつの話題を避けているような、若干のぎこちなさがあった。
いや、実際に皆がそれを避けているのだろう。
少なくとも、祐無はそうだった。
「え、そう? そんな顔してる?」
「うん、してるしてる」
「そ、そうかな……? なんか、恥ずかしいや。あははっ……」
そして、やはりそれが親の務めだとでも思ったのか、明るい雰囲気を変えたのは祐子だった。
「それはそうでしょ。あんた、そんなに笑う子じゃなかったんだから」
「うっ……」
「そんな気まずそうな顔しなくてもいいだろ? 笑えるってことは良いことなんだからさ」
「う、うん、そうなんだけどね……」
妙に真剣な顔つきになった母を見て、祐無は後ろめたさのような寂しさのような、何とも表現しがたい気持ちを抱いていた。
ただひとつ確かなことは、それが後悔じゃない、ということ。
それだけだった。
「まぁ、それはともかく。立ち話もなんだから……」
「あっ、そうだね。えっとねぇ、この辺だとあそこの喫茶店のコーヒーが美味しいって評判だよ。私はコーヒーそのものがダメだけど」
「ああ、そうじゃないわよ。どこかに入ろうっていう訳じゃなくて、秋子の家に行こうって言ってるの」
「え……?」
話を少しでも先送りにできると思って勢い勇んで話に乗った祐無だったが、祐子の言葉を聞くと、その言動が止まってしまった。
駅前の喫茶店を指差したままの状態で、驚愕の表情のまま停止している。
「お〜い、姉さぁん?」
「え? あっ……」
目の前で手を振られながら呼びかけられて、ようやく放心状態から解き放たれた。
しかしそれでも、驚いている様子に変わりはない。
「ちょっ……ちょっと待ってっ! ど、ぇ、なっ……どうして?」
「あはははははははははっ! 今のあなた、最高に面白いわよっ?」
「母さん……」
混乱して上手く舌が回らなかった祐無を見て祐子が笑い、祐一がそれを批難するような視線で睨む。
「ぁ〜、ゴメンゴメン。あまりにも予想通りの反応だったから、なんだか嬉しくて楽しくて」
「母さん……やっぱりこれ、人としてどうかと思うぞ……」
「ねぇ、だからどうして? 私って、このままお屋敷に帰るんじゃなかったの?」
それは、祐無にとって当然の疑問だった。
自分でもこの試験的な社会活動の結果はわかりきっていたし、終了式の日の電話でも、確かにそうするように言われていた。
祐一と入れ替わるようにして、何事もなかったように消えるという手筈だったから手荷物は少ないが、それでも、祐一には不要な物――女性モノの下着など――くらいは、全部持って出てきている。
それなのにこれから3人一緒に水瀬家に行こうと言われては、寝耳に水どころの話ではなかった。
「何言ってるのよ。祐無が屋敷に行っちゃったら、私たちはどうやって秋子の所に行けばいいのよ?」
「え? いや、でもだって……」
「だってじゃないの。あなたはこの街で、私や祐一と一緒に暮らすの。文句ある?」
あるんだったら別にいいわよ、屋敷で独りで暮らしても――――と続けようとした母に抱きついて、祐無は力いっぱい叫んだ。
「あ……あるわけないっ!!」
その瞬間、本日初の風がそよいだ。
その直後に、抱き合う母子は祐一に引き剥がされていた。
彼曰く、『自分が母さんに抱き付いてるみたいで気持ち悪い』からだとか。
確かに今の祐無は、祐一そっくりの男装をしている。
性別が違うと言われても信じられない……どころか、二卵性であることすら疑われるくらいに、2人の容姿はそっくりだった。
それだけ祐一が華奢で女顔ということなのだが、祐無の方も、女性にしてはなかなかしっかりとした体格を持っている。
そのおかげで今回のような祐一との入れ替わり計画が実行されたのだが、今この瞬間だけは、同じ顔が2つもあって気持ちが悪くなる。
それが、家族3人に共通した感想となっていた。
「あ、でも、そうなるとお父さんはどうなるの? あのおっきなお屋敷で独り暮らし?」
「まさか。あの人もこっちで生活するわよ。今は、いろんなところでいろんな手続きをしてるからいないけどね」
そして今、祐無は、2人を水瀬家まで案内しつつ、祐子に詳しい話を聞いていた。
ちなみに祐一は、女性2人の会話には参加せず、3歩離れたところでキョロキョロと周りを見回しながらついてきている。
どうやら、7年前までこの街に来ていたという事実を実感するために、その記憶を思い起こそうとしているようだ。
「いろんな手続きって、どんな?」
「だから“いろんな”よ。あんたの転入手続きやら、新しい住居の確認やら……これからは家族4人で普通に暮らせるように、頑張ってくれてるわ」
「新しい住居って……あ、そっか。さすがに、今のお家に全員は住めないもんね」
「そういうことよ。そのためにマンションだって買ったんだから。祐一がアレだから1階だけど、4LDKの大きなところよ」
「へ〜ぇ」
「…………」
自分が高所恐怖症だということを話題にされても、祐一は前を歩く2人の会話に割って入ろうとはしなかった。
彼自身、それを短所だと思ったことがないからだ。
それにそもそも、不安定な木の上や手すりがあるだけのベランダなどでなければ、彼はただ高いというだけで恐怖するようなこともない。
しっかりと閉じられた教室の窓から外の風景を見下ろすことくらいなら、あまり苦もなくすることができる程度のものなのだ。
それにそれ以上に、彼には今、母と姉の会話を聴いていられるほどの余裕はなかった。
この街に来たことがあるという事実を『知っている』だけで、この街で過ごしていたという『記憶がない』ので、内心では随分と戸惑っているのだ。
「それで、どうして急にそんなことになったの? 前に電話したときには確かに、私はまたお屋敷に篭らなきゃならないって話になってたのに」
「あぁ、あれ冗談だし」
「……は?」
核心に迫ろうとしたら返ってきた母の爆弾発言に、祐無は歩くことも忘れて呆けてしまった。
つられて祐子も立ち止まり、必然的に祐一も2人に追いつく。
「いや『は?』じゃなくて、あの電話で言ったことは、そもそもが冗談なの。そうでなかったら、あなたにはあの日の時点で屋敷に帰ってもらってたわよ」
「………………そう」
つまりはこういうことだ。
電話があった日の時点から、すでに祐無が今後も普通の生活をしてもよいと判断されていた。
しかし祐無にはその真実は告げず、初めから冗談で最悪の結果を通告していた、と。
「なによぉ、面白くないわねぇ。焦るとか慌てるとか、もうちょっとマシなリアクションはできないのー?」
――――こうやって、祐無の反応を見て楽しむためだけに。
「母さん……流石に今回ばかりは、ちょっと冗談がキツすぎると思うぞ、俺も……」
「あらそう? これでも、『あんたの所為で秋子がっ!!』とか言って責めなかっただけ、まだ遠慮してたつもりなんだけど」
「う……ま、まぁ、母さんがこういう人だってことは分かりきってたことだし、姉さんも、狸にでも化かされたとでも思って――――」
「狐だけで充分よ、そんなものはぁっ!!」
水瀬家の居候が聞いたら気を悪くしそうなことを言いつつ、祐無は祐子に向けて右腕を振り上げていた。
そして次の台詞と同時に、祐子の額を軽く叩く。
「お仕置きっ!」
「え? な――――え、なんでぇっ?」
祐無に触れられた祐子は、両目から止め処なく涙を流していた。
意図的に行使された祐無の『災厄』の力によって、理由もないのに心を悲しみが支配してしまったのだ。
「お母さんなんてっ……お母さんなんてぇっ……!」
祐無はこの春休みの間に、男のフリをしたままクラスメイトの北川潤の家に外泊したことがある。
しかしそれは、本来なら祐一のフリをしている必要がなくなっていた時点での出来事なので、容易に避けられることだったのだ。
それなのに彼女は、自分が『祐一』で居続けるためだけに、その誘いを断ることができなかった。
祐子の冗談の所為で。
彼女が怒るのも、無理はない。
「そのまま路頭に迷っちゃえーーーッ!!!」
「っておい! 置いて行かれたら俺まで道に迷うだろ!」
突然走り出した祐無を祐一が呼び止めたが、彼女はそれを無視して水瀬家に向けて走っていってしまった。
そして祐無を駅前まで迎えに来させたことからもわかるように、祐一はおろか、祐子でさえ、水瀬家までの道を記憶してはいなかった。
「ほら母さんも、意味もなく泣いてないで姉さんを追うぞっ!!」
「うぅ……お母さん、祐無に嫌われちゃったかも……」
「そんなの今更だろ!」
「ひどっ!?」
失意の念にうな垂れる母の手を引いて、祐一は祐無を追って走り出した。
ちなみに、その2人の姿はとても親子に思えるようなものではなかったという。
祐一も祐子も、顔は笑顔だったのだから。
「でもやっぱり、ああやって元気に走ってるあの娘を見てると、この道を選んで良かったって思えるわねッ……!」
「ああ、そうだなっ!!」
水瀬家に到着したとき、3人ともが息切れしていたことは言うまでもないだろう。